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東京地方裁判所 昭和52年(ワ)11333号 判決

原告 町田信也

右訴訟代理人弁護士 萩秀雄

同 中村博一

被告 木村武一

右訴訟代理人弁護士 安藝勉

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

〔請求の趣旨〕

一  被告は、原告に対し、別紙物件目録記載の建物を明け渡し、かつ、昭和五二年七月一日から昭和五四年三月三一日まで一か月金一三万六、五〇〇円、昭和五四年四月一日から右建物明渡しずみまで一か月金一三万円の割合による金員を支払え。

右前段の無条件の建物明渡請求が認められないときは、被告は、原告に対し、原告から金五二二万九、〇〇〇円の支払を受けるのと引換えに別紙物件目録記載の建物を明け渡せ。

二  訴訟費用は、被告の負担とする。

三  仮執行の宣言。

〔請求の趣旨に対する答弁〕

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

第二当事者の主張

〔請求原因〕

一  訴外多田かつは、被告に対し、昭和四一年九月二四日、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)のうち三階南側三一・一〇平方メートルを、賃料一か月四万円・毎月二五日までにその翌月分を持参払、期間二年、債務不履行のときは通知催告をしないで契約を解除できる旨の約定で賃貸し、次いで、昭和四四年四月三〇日、本件建物のうち二階南側二六・四四平方メートルを、賃料一か月四万五、〇〇〇円・毎月二五日までにその翌月分を持参払、期間三年、賃料の支払を三か月以上遅滞したときは通知催告をしないで契約を解除できる旨の約定で賃貸した。

なお、右各賃貸借契約の際、被告は、賃料とともに水道光熱費を支払うことを約した。

原告は、昭和五一年一〇月一日、多田から本件建物を買い受け、翌二日、その所有権移転登記を経由し、本件建物の賃貸借契約につき賃貸人の地位を承継した。

二  原告は、昭和五二年九月七日、被告に対し、同年七月分から九月分までの賃料三九万円、水道光熱費一万九、五〇〇円、合計四〇万九、五〇〇円を被告が支払わなかったこと(当時、本件建物の賃料総額は一か月一三万円、水道光熱費は一か月六、五〇〇円と合意されていた。)を理由に本件建物の賃貸借契約を解除する旨の意思表示をした。

三  仮に前項の賃貸借契約の解除が無効であるとしても、原告は、昭和五三年一一月二二日、被告に対し、本件建物の賃貸借契約を解約する旨申し入れた。右解約の申入れには、次のような正当事由がある。

本件建物を含む別紙物件目録記載の鉄筋コンクリート造陸屋根、地下一階付四階建事務所は、昭和の初期に建築され、東京空襲の際に火災にもあい、その朽廃の程度が甚だしい。右建物の外観は、一見使用に耐えられるように見えるが、基礎杭は、建築当時、松丸太を打ち込んだものである。戦後、右建物の地下に東京駅八重洲中央口から日本橋方面に通ずる地下道が新たに掘削されたので、松丸太は、地下から水分を吸い上げることができなくなり、もろくなって建物の杭として役立たず、建物が倒壊するおそれがある。そのため、原告は、この建物を取り壊してビルを新築する必要があり、その予定である。他方、被告は、本件建物を歯科診療所として使用しているが、この種の賃貸建物を本件建物付近で見つけることは、割合に容易である。しかも、その賃貸建物は、本件建物よりも設備、清潔度などの点で数等上のはずであるから、被告のような医業のためには、他の賃貸建物に移転することがむしろ望ましいといえる。

なお、右の事由だけでは、解約の正当事由として十分でないときは、原告は、本件建物(床面積合計五七・五四平方メートル)につき床面積三・三平方メートル当り三〇万円の割合による立退料五二二万九、〇〇〇円ないし裁判所が認定する妥当な金額を正当事由を補強するため支払う用意がある。

四  よって、原告は、被告に対し、賃貸借契約の終了に基づき、本件建物の明渡し(ただし、無条件の建物明渡請求が認められないときは、原告から五二二万九、〇〇〇円の支払を受けるのと引換えに本件建物の明渡し。)を求めるとともに、昭和五二年七月一日から賃貸借契約終了の日である同年九月七日(予備的に昭和五四年五月二二日)までは賃料として、その翌日である昭和五二年九月八日(予備的に昭和五四年五月二三日)から右建物明渡しずみまでは賃料相当の損害金として、いずれも一か月一三万円の割合による金員、昭和五二年七月一日から昭和五四年三月三一日まで水道光熱費として一か月六、五〇〇円の割合による金員の支払を求める。

〔請求原因に対する認否〕

請求原因第一項のうち、賃料の支払方法が持参払であることを否認し、その余の事実を認める。

請求原因第二項の事実を認める。

請求原因第三項のうち、原告が昭和五三年一一月二二日被告に対し本件建物の賃貸借契約を解約する旨申し入れたことを認め、その余の事実を争う。被告は、昭和二四年四月、唯一の資産である東京都文京区所在の宅地六九九平方メートルを他に売り渡し、その代金四〇万円で訴外多田かつから本件建物を賃借するに至り、昭和二五年六月から今日まで本件建物を使用して歯科医院を開業しており、本件建物を原告に明け渡すときは、長年苦労を重ねて基礎を築いた生活の本拠を失い、営業権、移転費など少なくとも五、〇〇〇万円を下らない損害を被ることになる。

〔抗弁〕

一  原告の賃料等不払を理由とする賃貸借契約の解除は、信義則に反するもので権利の濫用として無効である。

賃料の支払方法は、賃貸借契約書の上では、持参払となっているが、実際には、前賃貸人当時から終始取立払である。原告の集金人である訴外小栗澄子は、昭和五二年八月一一日ころ及び同月一七日ころの二度にわたり、同年七月分及び八月分の賃料、水道光熱費を集金するため本件建物へ来た。この時、被告は、銀行預金の印鑑を紛失したと思っていたので、「しばらく賃料の支払を待って欲しい。」と頼んだ。同年八月一七日ころの集金の際、被告は、「まだ印鑑が見つからないので、見つかり次第これを持って行く。」と言ったが、小栗が「いや、いいですよ。」と言って帰ったので、被告としては、また小栗が集金に来てくれるものと信じ、同月一九日に印鑑が見つかったので、賃料等を用意して小栗が来るのを待っていた。ところが、原告は、突如、本件建物の賃貸借契約を解除したのである。被告は、契約解除の通知を受けた同年九月七日、早速、同年七月分から九月分までの賃料、水道光熱費を原告の事務所に持参したが、原告が不在だったので、原告代理人萩秀雄法律事務所に持参した。しかし、萩弁護士からその受領を拒否されたので、翌八日、被告代理人安藝勉弁護士が右賃料等を萩秀雄法律事務所に持参し、これも萩弁護士からその受領を拒否されたので、同年九月一三日、右三か月分の賃料三九万円、水道光熱費一万九、五〇〇円に年五分の割合による遅延損害金二、一八八円を加えた合計四一万一、六八八円を弁済のため東京法務局に供託した。

以上のように、被告に対する賃料等の取立てを故意に怠りながら、その不払を理由に賃貸借契約を解除するのは、解除権の濫用であり、このような解除権の行使は、信義則に反する。

二  被告は、原告から賃料等の受領を拒否されたので、別表記載のとおり、これらを弁済のため東京法務局に供託している。

〔抗弁に対する認否〕

抗弁第一項のうち、原告が被告主張のように昭和五二年七月分から九月分までの賃料、水道光熱費の受領を拒否したので、被告がその主張する金員を弁済のため東京法務局に供託したことを認め、その余の事実を争う。原告の事務員である訴外小栗澄子は、昭和五二年八月一一日、同年七月分及び八月分の賃料、水道光熱費を集金するため本件建物へ行ったが、被告から、「銀行預金の印鑑が紛失したので、しばらく待って欲しい。」と言われた。そこで、小栗は、被告の申入れを了承し、同年八月一七日ころ、再度本件建物へ行ったが、被告は、「まだ銀行の手続がすまないので賃料を支払えないが、何度も足を運ばせて申し訳がないから、九月分の賃料も一緒に届ける。」と答えた。しかし、同年九月分の賃料の支払期である同年八月二五日を過ぎても被告から何の音沙汰もなかったので、原告は、同年九月七日、本件建物の賃貸借契約を解除したのである。原告は、本件建物の近くに事務所があるため事実上被告から賃料を取り立てていたが、これによって賃料の支払方法についての約定が持参払から取立払に変わったわけではない。仮にそれが取立払であったとしても、同年七月分から九月分までの賃料は、小栗の二度にわたる催促とそれに対する被告の前記のような返答によって持参払になっている。

抗弁第二項の事実を認める。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因第一項のうち賃料の支払方法が持参払であることを除くその余の事実、同第二項の事実及び同第三項のうち原告が昭和五三年一一月二二日被告に対し本件建物の賃貸借契約を解約する旨申し入れたことは、いずれも当事者間に争いがない。

二  賃料等不払を理由とする賃貸借契約の解除について

抗弁第一項のうち、原告が被告主張のように昭和五二年七月分から九月分までの賃料、水道光熱費の受領を拒否したので、被告がその主張する金員を弁済のため東京法務局に供託したことは、当事者間に争いがなく、この事実に、《証拠省略》を考え合わせると、賃料の支払方法は、本件建物の賃貸借契約書(昭和四一年九月二四日付及び昭和四四年四月三〇日付の分)の上では、毎月二五日までにその翌月分を持参払となっているが、実際には、被告が前賃貸人である訴外多田かつから本件建物を賃借していたころから毎月末日にその月分を取立払ということになっており、原告が賃貸人の地位を承継した昭和五一年一〇月以降においても、原告の長男(昭和五二年一月まで)及び原告の事務員である訴外小栗澄子(同年二月から)が本件建物に出向いて、被告から水道光熱費とともに賃料を取り立てていたこと、原告が賃貸人になってからの右取立ての時期を見るに、昭和五一年一〇月分は同年一一月一日に、同年一一月分は同月三〇日に、同年一二月分は不明であるが、昭和五二年一月分から四月分まではいずれもその月の末日に、同年五月分は同年六月八日に、同年六月分は同年七月八日にそれぞれ集金されていること、小栗が勤務する事務所と本件建物とは徒歩数分で行ける至近距離にあり、被告は、小栗が集金のため本件建物に来ると、同人を一〇分程待たせて、隣にある被告の取引銀行である株式会社太陽神戸銀行の普通預金口座から預金を引き出して賃料等を同人に支払っていたこと、小栗は、昭和五二年八月一一日ころ、同年七月分及び八月分の賃料、水道光熱費を集金するため本件建物へ行ったが、被告から、右銀行預金を引き出すために使用する印鑑を紛失したので、もう少し集金を待って欲しい旨頼まれたので、仕方がないと思って帰り、同月一七日ころ、再度本件建物へ行ったが、この時も、まだ印鑑が見つかっていなかったので、被告から賃料等の集金ができず、そのまま帰ったこと、この間、被告は、印鑑が紛失したことを銀行や交番に届けたりしていたが、同月二四日ころ、ようやく印鑑を見つけたものの、このことを小栗か原告に知らせることもなく、そのうち小栗が集金に来るだろうと思って、漫然と過ごしていたこと、ところが、被告は、同年九月七日、原告代理人弁護士萩秀雄ほか一名から本件賃貸借契約を解除する旨の内容証明郵便を受け取って驚き、早速、同年七月分から九月分までの賃料、水道光熱費を原告代理人萩秀雄法律事務所に持参したが、萩弁護士からその受領を拒否されたので、翌八日、被告代理人安藝勉弁護士が右賃料等を萩秀雄法律事務所に持参し、これも萩弁護士からその受領を拒否されたので、同年九月一三日、右三か月分の賃料三九万円、水道光熱費一万九、五〇〇円に年五分の割合による遅延損害金二、一八八円を加えた合計四一万一、六八八円を弁済のため東京法務局に供託したことを認めることができる。

右認定の事実に基づき考えるに、原告の事務員である小栗が二度にわたって賃料等の取立てに来たのに、被告が印鑑を見つけても、このことを知らせず、賃料等を支払わないでいたことは、賃借人として軽率であるといわざるを得ない。しかし、他方、実際に行なわれていた賃料の支払方法は、前賃貸人当時において毎月末日にその月分を取立払ということであり、原告が賃貸人になってからも、同じような取立払が続いていたこと、小栗が勤務する事務所と本件建物とは徒歩数分で行ける至近距離にあること、小栗は、被告が賃料等を支払わない理由が印鑑を紛失したためであることを知っていること、被告は、これまで賃料等の不払を問題とされたことが全くなかったことなどからすると、被告においてまた小栗が集金に来てくれるものと軽信し、まさか原告から何の前触れもなく賃貸借契約を解除されるなどとは思わなかった気持もわからないではなく、被告が賃料等を支払う意思及び能力を十分有していたことも明らかであるから、被告が賃料等を支払わなかったことについては、未だ背信行為と認めるに足りない特段の事情があるものというべきであり、これを理由とする賃貸借契約解除の意思表示は、その効力を生じない。

三  正当事由を理由とする賃貸借契約の解約について

《証拠省略》を考え合わせると、原告は、訴外多田かつから本件建物を含む別紙物件目録記載の鉄筋コンクリート造陸屋根、地下一階付四階建事務所を買い受けたが、右買受けの目的は、右建物を使用している賃借人らに明渡しを要求し、明渡しを受けた建物を取り壊してその跡にビルを新築することにあり、右買受け後、賃借人らのうち、二階の三興商事株式会社、三階の株式会社志村建築設計事務所、四階の光和ビルメンテナンス株式会社との間に、各賃貸建物の明渡しを受ける旨の調停が成立し、三興商事との間では賃貸建物の床面積三・三平方メートル当り四〇万円、光和ビルメンテナンスとの間では賃貸建物の床面積三・三平方メートル当り約三五万円の各割合による立退料を支払うことにより、志村建築設計事務所との間では、右建物を建てかえる際にその設計及び工事監理を原告から同事務所に委任する旨の予約をしたので立退料を支払わないで、それぞれ明渡しを受けることに決まったこと、しかし、被告ほか三名の賃借人との間にまだ各賃貸建物の明渡しを受ける旨の合意が成立していないこと、右建物は、東京の表玄関である東京駅前の八重洲通りに面する東京都区内屈指の一等地に所在し、昭和二年ころに関東大震災後の堅固な震災復興建物として建築されたものであるが、昭和二〇年三月の東京大空襲の際に火をかぶって建物の強度に影響を受け、また、その基礎杭は、建築当時、松丸太を打ち込んだものであるが、昭和三〇年代に右建物の前に地下駐車場ができたり、地下鉄工事が行なわれたり、道路が舗装されていることなどから、松丸太が地下から吸い上げる水分が不足してもろくなっているのではないかと一応懸念されていること、被告は、七一歳の歯科医師であるが、昭和二五年六月から今日まで本件建物を使用して歯科医院を開業しており、月収約一二〇万円を得ていることを認めることができる。

右認定の事実に基づき考えるに、別紙物件目録記載の鉄筋コンクリート造陸屋根、地下一階付四階建事務所は、建築後約五〇年を経ており、東京駅前の八重洲通りに面する建物としては、付近の建物に比較してその美観、設備等において相当見劣りがするであろうことは容易に推察できる。しかし、右建物は、鉄筋コンクリート造りの堅固な建物であって、これまで特段の支障もなく使用されており、建物の強度や基礎杭の耐久性につき若干問題とされる点があるとはいえ、危険な建物として関係機関から指摘を受けたようなこともなく、原告主張のように建物の朽廃の程度が甚だしいとか建物が倒壊するおそれがあるなどとは認められず、なお、相当の期間事務所等としての耐用年数を有するものと認められる。そうすると、原告がいう右建物の建てかえの必要は、右建物を取り壊してその跡に近代的ビルを新築することにより最も効率的に土地を利用して経済的利益を得たいということにつきるものと思われる。他方、被告は、これまで三〇年近くも本件建物を使用して歯科医院を開業しており、その年齢からしても他の賃貸建物に移転して新たに開業することは至難であって、本件建物を原告に明け渡すときは、かなりの損害を被るものと認められる。これらの諸事情を比較すれば、原告の前記建物取壊しの必要性は、被告の本件建物使用の必要性よりも劣るものというべきであるから、原告の無条件の解約の申入れには、正当事由があるものと認めることはできない。次に、原告は、正当事由の補強として立退料五二二万九、〇〇〇円ないし裁判所が認定する妥当な金額を支払う用意がある旨申し出ているが、建物の建てかえについての原告の具体的計画、資金の見通しなどが未だ明らかでない時期にあること、本件建物の借家権の価値がその地理的環度と相俟って相当高く評価されると思われること、本件建物の明渡しによって被る被告の財産上、精神上の損害が大きいことなどを考慮すると、右立退料支払の申出をもって正当事由を具備するに至るものと認めることもできない。前に認定した原告と一部賃借人との間に成立した調停の内容は、右判断を左右するものではない。したがって、正当事由を理由とする賃貸借契約の解約の申入れは、その効力を生じない。

四  賃料、賃料相当の損害金及び水道光熱費の請求について

昭和五二年七月一日から同年九月七日までの賃料は、第二項で認定した被告の弁済供託によって支払われており、本件土地の賃貸借契約は、依然として有効に存続しているから、その終了を前提とする賃料相当の損害金が発生することはあり得ない。また、昭和五二年七月一日から昭和五四年三月三一日までの水道光熱費については、被告において原告からその受領を拒否されたので、別表記載の番号1ないし19のとおり、これらを弁済のため東京法務局に供託したことにつき当事者間に争いがないから、右弁済供託によって被告の支払債務が消滅している。

五  よって、原告の本件建物明渡請求及び賃料等支払請求は、いずれも理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 安達敬)

〈以下省略〉

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